kaamos-metsa うつ寛解後を生きる

心の病の寛解後、を私なりに生きて、考えています。

【うつを振り返る】日常生活でのミス=「私」が悪い?

うつ寛解後の生き方・暮らし方、みたいなことを考えてみたいと

始めたブログですが、ほとんどその辺を書いていなかったので、

今日は少し考えてみたいと思います。

 

自分を責める思考、というのが今日のテーマです。

 

こんなことがありました。

スーパーでひとやま○○○円的なみかんを買いました。

 

 

果物の良し悪しを見極める自信はないし、

そんなに触ったりも出来ないですから、ほとんど

見た目だけで判断して選んだのですが…。

 

このみかん、家に帰ってネット(網)を開けてみると、

いくつかが腐りかけのような手触りでした。

 

その瞬間、私の場合、ハッと凍ります。

「私は悪いことをしてしまった」という気持ちでいっぱいです。

選んだみかんが悪かった=私が悪い

という図式が成立して、

「なんでこんなこともできないんだ!」

「だから何をやってもお前はだめなんだ!」

そんな自分を責める言葉がわいてきます。

 

ただ今回は、「これこそが、私をうつゾーンに連れていく

考え方だなあ」と何故か思いました。

 

多分、認知行動療法とか少し指南を受けた時に、

この辺は聞かされてるんだとは思うんです。

でも正直、その頃はよく分かりませんでした。

 

考え方を変えてみましょうとか思考回路の問題に触れられても、

「でも、そのように一瞬で考えて自分を責めてしまうから、

それはもうどうしようもなくない?」

と思っていました。

 

でも、良いみかんを選べなかった自分を、

「なんでこんなこともできないんだ!」

「だから何をやってもお前はだめなんだ!」

なんて、自分をボコボコにすることなんて

全然ないんですよね。

 

これがまあまあ大きなミスであったとしても、

反省する以上に自分を自分で立ち上がれないぐらい

叩きのめす必要など、どこにもないはずです。

 

ミスをしてしまった自分は確かに存在するとしても、

そのことで毎回、おのれの人格まで否定するクセがついていないか、

そういう点検は大事ではないか、と、私は今回の出来事を

通じて思いました。

 

それで、ここからは個人的な体験を書きますが、

「なんでこんなこともできないんだ!」

「だから何をやってもお前はだめなんだ!」

という自分を責める声、それは自分の声ではない気がする、

というのが今日の発見でした。

 

私の場合は、母親の顔と声を、いつも無意識の中に

見て、聞いていたようです。

 

数知れない体験の中で、そういうシーンは当たり前のように

受け止めてきたけれど、そのたびに私は恐らく自分をすごく

だめな人間だと思ってきたんだと思います。

 

ただ私は、人生を振り返って憎むべき対象を見つけようとか

そういうことを伝えたいわけではありません。

そうではなく、「自分の声ではないならば、なおさら耳を傾ける必要はない」

と感じたということを伝えたいのです。

 

親の思うように行動できなかった「私」は

時としてかなり責められたし、人格を否定されたかもしれない。

その人のことを大好きだから、「私」は本当に自分のことを

ダメな人間だと思ったし、消え入りたいと思った。

 

この「私」を救う方法があるのかどうかは分からないけれど、

少なくとも、この「私」を責める声を、

今の「私」を責める声として受け止める必要はない。

 

スーパーのみかんを通じ、私はそんな風に感じたのでした。

 

ちなみに、腐りかけのみかんはすごく美味しかったです。

災い転じて…ということもあるんですね。

 

◇◆◇◆ attention ◇◆◇◆

本ブログは素人による雑記です。

現在治療中の方、また受診を考えられておられる方には

専門家への相談をおすすめします。